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あげまん女性は、「男が幸せになる為に存在する」のではありません。

あげまん女性とは『男性にツキをもたらす神様的存在』

母親の無条件の愛につながるところでもありますが、何と言っても、あげまん女性は『男を立て、その気にさせるのがうまい』です。それも驚くほどに。

デキの悪い男に対しても、責め心を持たず、巧みに持ち上げて背中を押し、前へ誘導することが出来ます。

そんなリードをされれば自分の持てる力を十分に発揮し、少しずつツキを呼び込む男になれるものです。

男性にとって、あげまん女性とは『ツキをもたらしてくれる神様的存在』です。

家事や育児をソツなくこなし、単に家を守るだけの受け身の女性ではありません。男性の言いなりになって献身的に尽くす女性でも、三歩も四歩も下がってじっと我慢するだけの女性でもないのです。

日頃から半歩下がって男を立てつつも、時には男を奮い起こすためにズバッと言うべきことを言う。母性としての癒しや優しさを芯に持ちながら、愛情を持って厳しく言い聞かせることができるのも『あげまん女性』の特徴です。

例えば、2014年のNHK大河ドラマ「黒田勘兵衛」の中で、秀吉(竹中直人)と、おね(黒木瞳)の会話に『あげまん女性の特徴』が見事に表れているシーンがありますのでご紹介しておきましょう。

「秀吉」と「おね」の“あげまん会話”

秀吉「おね!わしは城持ち大名になったんじゃ!」

おね「ま、、、まことでございますか!(驚きが絶頂に達し、言葉に詰まるほど)」

秀吉「こんなこと、戯言で申せるか。草履とりからとうとう大名にまで上りつめたのじゃ」

おね「なんだか夢のよう…(例えようのない喜び、まるで夢でもみているかのように嬉しい)」

秀吉「夢ではない。北近江じゃ、浅井領だった北近江がわしの新しい領地じゃ。小谷城じゃ」

おね「おまえさま。落ちた城は縁起が悪うございます。それより琵琶湖の見えるところに城をつくってはいかがですか。岐阜の城をお手本に新しい城と城下を、みなが集まる豊かな国をつくるのです」

秀吉「さすが、わがかかさまじゃ。そうとも、そうしようぞ」

男を立てながらも、言うべきところはズバッと言う。秀吉を草履とりから天下人にまで押し上げた影の功労者が「おね」という『あげまん女性』だったことは想像に難くありません。

『女性の幸福論』は、男女の努力なくして語れない。

あげまん女性は、男性だけが幸せになるために存在するのではありません。

男性が踏み台にできるような都合のいい女性を指すものでも断じてありません。

あげまん女性になることは、母親が「子の幸せこそ、自分の幸せ」と思うように、女性自身も幸せになるためのスキルなのです。

また、男性が成長すれば女性は成長しなくてもいいなどという上下関係を表すものでもありません。

男性を成長させることで、一緒に自分も成長していく。男性を幸せにすることで、一緒に自分も幸せになろうという『女性の幸せ』を表しているのです。

男性の人生は、女性で決まるとも言えます。

男は女がいるからこそ、少しでも「デキル男」「かっこいい男」「強い男」になろうと自分を磨く生き物。女がいるからこそ、強くなりたいし、出世したいと奮起する。そういった男の潜在能力が男女関係の中で引き出されていけば、男も女も幸せになれるのではないでしょうか。

そこで重要になってくるのが、男も女もお互いに努力する必要があるという視点です。

女性がどんなに男性をもり立てても、男性がそれに応えようと努力しなければ成り立ちませんし、男性がどんなに女性をリードしても、女性がそれに応えようと努力しなければ、ツキを呼ぶ男女関係にはなれないということです。

女性は積極的にあげまん女性になる努力をし、男性は女性をあげまん女性にする努力が必要だということも忘れてはいけません。

男も女も幸せになれる幸福論を語る上で、その主人公が『あげまん女性』であることは間違いないのです。

おわりに

いかがでしたでしょうか。

冒頭で、女性が“より高いレベルの幸せ”を得る方法は、やはり『あげまん女性になること』だとお伝えした真意をご理解いただけたのではないかと思います。

本記事を読み終えるまでは、あげまん女性と聞くと、常に男性を立てながら、献身的に尽くし、自分を犠牲にして支えていく。そうやって男性を仕事に専念させたり、出世に導いたりする女性だと思っていた方も多かったのではないでしょうか。

しかし、それでは「あげまん」が『男性だけが幸せになるための差別用語』になってしまいます。女性自身も一緒に幸せになれなければ、本当の意味での『あげまん』ではありません。

どちらか一方が「どうして私ばっかり」と思っている男女関係に幸せの入り込む余地はありません。女性があげまんになることは、女性自身も幸せになるための『女性の幸福論』であり、男女の努力なくしては語ることが出来ないのです。